Maydayの歴史 (3)

「溶鉱炉の火は消えたり」はストライキ後10年たつて1930年発行される。浅原健三は1928年第一回普通選挙で国会議員に当選する。
「溶鉱炉の火は消えたり」はストライキ後10年たつて1930年発行される。浅原健三は1928年第一回普通選挙で国会議員に当選する。

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2015.5.1

 歴史探究

八幡のメーデー  (3)

  

第3回メーデー 1924年 大正13年

 総同盟北九州機械鉄工組合は1923.5.23結成される。3年前のストライキで、同友会、労愛会は解体に追い込まれ、友愛会が発展して改称した日本総同盟の傘下の組織で、前年の遠足メーデーをした同志会の製鉄戸畑作業場の急進派メンバー、製鉄枝光作業所、旭硝子戸畑鋳物、明治紡績、若松江口鉄工所の組合員が加盟して、横断的な地域組合です。5.1メーデーは同志会とこの総同盟機械鉄工と一所にメーデーを計画したが、前年9月の関東大震災が起こり、警察はデモ集会を許可されず、メーデーは中止となる。

  

第4回メーデー 1925.5.1 大正14年

 1925年4月治安維持法公布。5月衆議院議員普通選挙法公布される。1925年大正14年のメーデーは警察の集会許可がでなかった。八幡市では、普通選挙による初めての市議会選挙が行われ、その開票日が5/1であったこともあり、同志会は選挙に集中して八幡ではメーデー開催されない。

 普通選挙法が成立し、労働組合団体から、市議、県議となる人が出てくる。同志会内部の対立、不正経理、不祥事の事件が「製鉄労働運動誌」には記録されている。

 浅原健三はこう九州民憲党をつくる。同志会内部で県議、市議選挙で幹部の左右の派閥的対立。主事中田末三郎の、仲居へ入れ込む素行不良と機関誌広告料をごまかしの会員から追及、会計部長木崎勇蔵の多額の使い込みなど発覚など起こり、同志会は組織刷新する。

 共同研究会は、労務担当責任者の田尻生五工場課長の後ろ盾で、労使協調でこまごまとして福利厚生を陳情、嘆願をする。同志会の内紛もあり共同研究会の勢力は増えるのです。

 田尻生五さんは、大正15年に労働部長になり守衛、外勤の労務係を通して、絶えず製鉄所の労働運動、政治運動の情報の把握して労務管理体制を築いた人で「田尻労政」と呼ばれていた。田尻生五さんを国会議員に政治団体として1929年昭和7年鉄心会をつくり、田尻会をつくり、政友会から国会議員になります。

 <八幡製鉄所の組合組織人員>。(八幡製鐵所労働運動誌昭和28年刊) 

 大正14年会費納入人員 1月 同志会3700人 共同研究会1967人。9月 同志会4036人、共同研究会2906人

 

 デモクラシーの逆行

 普通選挙は、それまでの納税額による制限選挙から、納税要件が撤廃され、成年男子に選挙権が与えられることになり、製鉄労働者は自分たちの議員を議会に送れるようになります。普通選挙といっても、女性には選挙権が得られるのは、戦後なのです。 

 近代史で大正デモクラシーとは、米騒動から普通選挙法成立する期間で、この間、文学、労働組合、政党、文化は、自由と民主主義は発展するのです。普通選挙施行後、労働組合の左右の対立は、民声会、九州民憲党、社会大衆党、労農党と政党支持で四分五裂する。それぞれのグループが主義主張を自由闊達に宣伝し、労働者はどこの労働組合に加入するのか自由な選択肢があり、デモクラシーは健在であった。それが「八紘一宇」のスローガンで全体主義に逆行していくのです。1929年世界恐慌が起き、1931年柳条湖事件、満州事変と戦争体制へ向かう。1936年、二・二六事件、1937年日中戦争、1938年国家総動員法と戦時体制になり、1940年労働組合は解散して、労使一体の日本産業報国会となり、政党は大政翼賛会となります。

 メーデーは1936年2.26事件以降1945年の敗戦の年まで開催されません。

 (おわり)

 

参考文献

八幡製鉄労働運動誌 昭和28年八幡製鉄所㈱発行(甲斐募編集)非売品

福岡県史ー通史編近代社会運動1 平成14年福岡県発行

高炉の神様・宿老田中熊吉伝 佐木隆三

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旧八幡駅1902〜1955年 絵葉書
旧八幡駅1902〜1955年 絵葉書