経済と環境の調和 (2)

写真 1964年代の洞海湾と 若戸大橋  七色の煙を自慢する風潮があった。
写真 1964年代の洞海湾と 若戸大橋  七色の煙を自慢する風潮があった。

2015.5.14

経済と環境の調和(2)

経済と環境のどちらを優先するのか

 

 光和精鉱のパンフレット表紙には、「生産と環境の調和」と書かれています。その意味の説明を受けたことはありません。

 地球環境保全に貢献していると誇りも持っても働いていると実感できているかが大切と思います。

 

「経済と環境の調和」の思考は1971年に国の環境法制から削除されます。その経緯について述べます。

  個人的な体験を話します。1960年代の高度成長時代に水俣病、イタイイタイ病、四日市ぜんそくと公害問題がおこります。

 1964年東京オリンピックのときは、小学5年制で八幡枝光地区の高台に住んでいました。洞海湾は大腸菌も住めない死の海と呼ばれ、落ちたら死ぬのではないかと思うぐらい海の色は褐色でした。スモッグで空はどんより曇り青空が見える日は少なかったです。学校のスケッチ大会でもうもうと出る煙が夕日に照らされ、黒い海、さび色の工場群に白い貨物船を描いた絵が入選し、八幡市の姉妹都市米国ビッツバーグに出展されて、賞品を貰ったことがありました。公害は、製鉄の景気がよい証拠だと多くの人が思っていました。隣の家主のぜんそくの幼児は空気のよい三ヶ森へ引っ越していきました。八幡市は、起業祭りの11/18は休校です。クラスの90%は製鉄関係で働く親たちの企業城下街ですから、公害は必要悪と思っています。

 

  工場排水規制は1958年「水質保全法」がありましたが、公害紛争が発生し、1967年「公害対策基本法」を制定します。この公害対策基本法は、「生活環境の保全については、経済の健全な発展との調和が図られるようにする」と『調和条項』があって、罰則も甘く、薄めて流せばよいとするザル法でした。

  公害行政批判の世論に圧されて1970年(昭和45年)11月14日の公害国会で、『調和条項』は削除され、公害対策関係14法案が成立します。翌1971年1月には環境庁ができます。

  新水質汚濁防止法は猶予期間を置いて1971年(昭和46年)6月24日施行されます。その年の秋に光和精鉱は工場立里り調査で「ヒ素流し放し」が摘発されたのです。

 旧公害対策基本法の「経済と環境の調和」の条項は削除されたのですが、経済優先の思考はなかなか払拭されません。

  この時期1972年6月には労働基準法から分離して労働安全衛生法、特化則法律が整備され、労災職業病に対する企業の安全配慮義務が科せられます。

 

 40数年前の東京オリンピック1964年頃の「経済と環境との調和」は法律から削除されています。しかし、いまだ「経済と環境との調和」と掲げている大企業が多く存在します。

 「調和」とは、相反する事柄の双方のバランスをとるという意味ですから、それが本音であっても、環境を守り社会に役立つ企業であり続ける。法律の環境基準を守れない企業は淘汰されて存続はありえないのです。

 光和精鉱の経営方針は、環境、安全を最優先ですが、問題は生産稼働即収益をどうしても並列する行動をとってしまうことを律するよう末端職制まで徹底する日常的啓蒙活動を続けることが大切です。

 砒素流し放し新聞記事では、操作ミスによると書かれていますが、すぐに液処理施設を拡充して排水対策に努めます。その後も、脱硫設備を創り、排ガスにも万全を期します。(続く)

 

 公害対策法の沿革 

  • 1958年--水質保全・・農業漁業との利害調整目的で、生活環境の保護の視点はない。
  • 1962年--ばい煙規制法・・ 生活環境の保全と経済調和が並列的に置かれ、経済発展を重視する考え方強かった。
  • 1967年--公害対策基本法・・健康の保護や生活環境の保全が主な目的とされる一方で経済調和条項を考慮することが残された。
  • 1970年--公害国会で、経済調和条項はすべて削除され、公害対策関連14法が整備される。
  • 1971年--環境庁設置
  • 1993年--環境基本法・・地球環境保全、環境への負荷の少ない持続的発展が可能な社会の構築すること基本法。経済より環境優先の理念。
  • 2000年--循環型社会形成推進基本法・・家電、食品、容器、自動車などのリサイクル法整備。
八幡駅1958年 風景写真と鉄道写真HPから。
八幡駅1958年 風景写真と鉄道写真HPから。